発病から入院・退院までの治療
- 発病から治療までの経過
発病:平成26年(2014)11月15日~11月24日(10日間)。初めの3日間は36℃台の微熱があった。その後は37~39℃台の熱が出る。
11月20日、風邪薬購入し服用するが効果なし。熱と咳のため毎日のウォーキングを中止する。 - 最初の治療:平成26年11月25日~12月9日(15日間)行きつけのS病院呼吸器内科で肺炎の診断を受ける。抗生物質の治療を受けるも好転せず。北里大学病院への紹介を受け検査をする。
11月25日、S病院で肺炎の診断を受ける。抗生物質アモキシシリンカプセル250mg(合成ペニシリン製剤)・解熱剤・咳止めを服用する。CRP定量:23.66。
12月2日、S病院で前回の抗生物質が全く効かないため、北里大学病院での検査を勧められ紹介を受ける。ジェニナック錠200mg(合成抗菌剤)などの処方を受ける。これを服用するも全く効果なし。CRP定量:16.34。
12月8日、北里大学病院で血液検査、X線撮影をする。気管支鏡検査の説明を受け予約をする。 - 入院・治療・退院:平成26年12月10日~27年1月20日(42日間)
北里大学病院の呼吸器内科にて肺の気管支鏡検査等を受け即日入院となる。この時血液中の酸素飽和度88%。翌日よりステロイド剤(プレドニン)の点滴を受ける。急速に肺炎の症状は改善し熱や咳も収まってくる。途中から点滴ステロイド剤が増量され2週間継続される。その後はステロイド剤の減薬を行いながら退院となる。入院期間中は採血とX線撮影が10回(平均4日間隔)あった。
入院・退院の記録
2014年(H26)12月10日、気管支鏡検査後に即日入院
北里大学病院にて、午前中から午後にかけて気管支鏡検査を受ける。
看護師やスタッフ、主治医の先生など総勢4、5名で大変な検査なんだなと思う。あらかじめ喉や鼻に局所麻酔を行い、鎮静剤だかの注射も打たれる。麻酔が効いているためか気管支鏡が入っていくのはよく分からない。どの段階で気管支洗浄とか生検をしているのかもよく分からない。ただ時間が経つにつれ次第に咳が多くなり苦しくなってくる。我慢しようとしても咳を止めることができない。主治医の先生が「大丈夫ですか」、「もう少しで終わりますよ」、「がんばってください」などとしきりに声をかけてくれる。時間は20分位だったようだが、苦しかったせいかもっと長く感じた。
ようやく検査が終わり救われた気持ちになる。その後、説明があり症状が重いので即入院が必要だと言われる。こちらは今日は検査だけだと思い、入院を予想していなかったし気持ちの準備もなかった。しかし、やむなく了承するしかない。入院の手続きが済み個室の病室に入った。だが、それほど重症とも思えず急な入院と有料個室もなんとなく釈然としなかった。そこで主治医の先生に「今日このまま帰って、15日に検査結果が出てから入院かどうか判断してもらえませんか?」とお願いした。すると先生は何も言わずにパルスオキシメーターで私の酸素濃度を測りその結果が88%だった。そして「やはり今日は帰ることは出来ません」といったのだ。そのため、今日からそのまま入院となる。
2014年(H26)12月11日 霧視はステロイドの副作用か?
突然の入院だったのでパジャマや履物なども準備は全くしていなかった。従って寝る時も下着のままだ。しかし院内は空調が効いており室温23、24℃で快適なので寒さは感じない。今日はCT検査、超音波検査を行い、ステロイドの点滴も始まる。午後8時の面会可能時間近くまでいた妻も帰ってしまった。熱は相変わらず有り、時々咳き込みながらも何時しか寝てしまったらしい。
夜中の午前3時半頃だと思うが、看護師さんに起こされる。「寝汗がすごいですよ」と言ってタオルで体の汗を拭いてくれる。そして私は何気なく周りを見渡して愕然とした。病室内も照明も、まるで濃い霧がかかったかのように見えるのだ。「なんだこれは!点滴のせいだ!」ととっさに思う。看護師さんに話掛けようとするが呂律が回らずうまく話せない。しかし、時間の経過と共に濃い霧のように見えていた状態は段々薄らいで行く。30分後には大体平常の状態に戻った。もしあの状態が続いていたと思うとゾッとした。(後で調べて見たところ、ステロイド投与による「霧視:むし」という視覚障害や言語障害などの副作用が出る場合があるらしい。)
2014年(H26)12月12日 大部屋へ引越す
大部屋への引越しとなる。妻がパジャマや下着、履物なども持ってきてくれる。ステロイドの効果か、熱が下がってきて咳も次第に少なくなってくる。昨日は病院食のおかずだけは何とか食べられた。しかし、あまり食欲がなくご飯は三食とも半分ほど残してしまった。今日は熱が下がり体が楽なので全て食べられる。
また、今日から有料の4人部屋に替わった。4人部屋の病室の直ぐ外にこの部屋専用の洗面所とトイレがある。ベットの場所は入口側の左側であった。窓際のように外の景色が見えなくてもよいと思った。酸素チューブを付けているので、何よりもトイレや洗面に近いのが便利なのだ。
2014年(H26)12月19日 歩行練習を開始
歩行(ウォーキング)練習を開始する。酸素チューブ(鼻カニュラ)は常に付けている状態なのでトイレに行くのが厄介だ。しかも「トイレに行く時は必ず看護師を呼んで下さい」と言われている。主治医の先生からの勧めもあり歩行練習をする。最初は看護師さんが一緒に付いて病棟の廊下を歩いてくれる。酸素チューブを付けているので移動式の酸素ボンベ(カート)を引いて歩く。病棟の北と南の端にはラウンジ(休憩所)があり、そこからの風景を見ながら歩く。
2014年(H26)12月20日 点滴ステロイド剤の増量
点滴ステロイドの増量と歩行開始。今日から点滴ステロイド剤が増量される。今までは様子を見るためか少なめの量を投与していたらしい。それでもかなりの効果があり熱は平熱になり、咳もほとんど出なくなった。点滴ステロイド剤が増量されても体調の変化はほとんど感じられない。今日から酸素ボンベ(カート)を引いて本格的に病棟内のウォーキングを開始する。
2014年(H26)12月24日 特発性器質化肺炎と診断される
今日は病名と病状の説明があった。研修医の先生に案内された病棟内の面談室で、妻の立ち合いのもと、主治医の先生が病状を説明してくれる。入院時の胸のX線写真と今日のX線写真とCT画像を比較して説明してくれる。素人目に見ても胸の上部を覆っていた白い影はほとんど無くなっていた。病名は「間質性肺炎の中の特発性器質化肺炎」と説明される。発病した原因については分からないとのことであった。
2014年(H26)12月26日 無料4人部屋へ替わる
文庫本を購入した。ステロイド剤の点滴は1時間くらいで終わってしまう。1日5回のウォーキングをしても1時間から1時間半位程度である。夜になって寝れないと困るので昼寝はしない。興味のあるテレビは見るがそれにも限度がある。要は時間が余って困ってしまうのだ。
そこで本でも読もうかと思い立つ。酸素チューブを付けて酸素ボンベのカートを引きながら、初めて1階の本屋に行き文庫本を2冊購入した。2冊の本は3、4日で読み終わってしまった。そこで家にある以前読んだ本を持ってきてもらった。前に読んだ本でも内容をほとんど忘れていて、新しい本を読むのとあまり変わらなかった。1日~2日で1冊のペースで退院までに15冊程度は読んだ。今日は無料の4人部屋に替わった。ベットの位置はやはり入口側で今回は右側であった。
2014年(H26)12月28日 酸素チューブが外れる
酸素チューブ(鼻カニュラ)が外れる。点滴ステロイドが増量されてからも体調は順調だ。ウォーキングも毎日しっかりとやっている。病棟内にも歩いている人を見かけるが、私ほど時間をかけてやっている人はいないようだ。廊下は看護師やスタッフや患者が常に行き交っている。歩くスピードが速いと危ないので適度に歩く。
酸素濃度の値も日毎に良くなってきている。今日は酸素ボンベのカートは引いているが、酸素チューブを外してウォーキングをする。明日の自宅への外泊を控えて、なんとか酸素チューブを外せるようになったのが有難い。
2014年(H26)12月29日~30日 入院から初めての自宅外泊
外泊。今日は入院から初めての自宅への外泊だ。旅行するみたいにウキウキする気分だ。朝から酸素濃度を何回も測られた結果、念のためにカートの酸素ボンベは持参することになった。酸素濃度測定値が安定せず92%とか94%では外泊を許可するほうも心配なのかも知れない。迎えにきた妻と一緒にタクシーに乗り、最初に自分の仕事場である事務所まで行ってもらう。
早速、入院以来20日振りにパソコンの前に座る。午前中から午後にかけて、溜まっていたメールや仕事を片づける。昼の食事では入院以来初めてのお酒も飲んだ。そして午後3時になり入院中に食べたいと思っていたカップヌードルを食べる。夕方になり500mほど離れた自宅マンションに行き、シャワーを浴びる。まだ腕に点滴のチューブを付けているので入浴は無理なのだ。研修医の先生にも「酸素が心配なので入浴はしないで下さい」と言われていた。翌朝の朝食は白いご飯にアジの干物と味噌汁である。普通の朝食だがこれがあまりにうまくて感激した。朝食後は歩いて事務所に行き雑事をこなす。酸素ボンベのカートがあるので、午後3時頃にタクシーを呼び病院に戻った。結局、両日とも酸素ボンベを使うことはなかった。
2015年(H27)1月3日 病院で年末年始を過ごす
人生で初めて正月を病院内で過ごした。相変わらず正月のテレビは似たような番組でつまらない。2週間のステロイド増量期間が終わり、今日からステロイドの減量がはじまる。病院内で行う治療は1日1時間ほどのステロイドの点滴しかない。それならば入院はせずに外来として点滴だけをしてもよさそうなものだ。しかしステロイド剤投与の副作用としては、感染症にかかりやすくなることがある。間質性肺炎の場合、風邪などの感染症にかかると急性増悪と言って、病状が急に重くなることがあるという。そのために、感染症の予防のためにも入院という方法が一番安心出来るのかも知れない。
2015年(H27)1月08日 酸素ボンベと共に一時帰宅する
最初の外出をする。2日ほど前から研修医の先生に外出許可をお願いしていた。そして今日半日ほどの外出をして自宅に戻る。自分としては酸素ボンベは必要ないと思った。しかし事前に酸素濃度を何回も測られて、やはり念のために酸素ボンベのカートは持っていくことになった。毎日のウォーキングで体力は充分あるし、息苦しいなどの自覚症状は全くない。そのためタクシーは使わずバスを利用した。最初は事務所に行って溜まった雑事を片づける。自宅へ行き、早い夕食を済ませる。夕食後は近くのバス停で20分近くも遅れてきたバスで最寄りの駅に着く。バスが遅れたために予定のバスに乗れず、結局タクシーで病院へ戻った。
2015年(H27)1月15日 酸素ボンベなしで一時帰宅する
2回目の外出。前回の外出から1週間目の外出だ。今回からカートの酸素ボンベは不要となった。退院が間近に見えてきた。それに備えて病室に置いてある不要な物を持ち帰ることにした。感染症予防のためマスクをしてバスに乗る。帰りも徒歩やバスで病院に戻った。ナースステーションで「帰院」の報告をすると、受付の看護師さんが「お帰りなさい」と言ってくれる。病院が懐かしいような、自分の家のような妙な気分になった。
2015年(H27)1月16日 ステロイドの点滴が終了となる
ステロイドの点滴終了。ステロイドの点滴が今日で終わり、点滴の針とチューブが腕から外される。点滴の針は1週間くらいで別の場所に付け替えられるので、点滴期間の37日間で4、5回は針を入れ直した。これがあるとシャワーの際も濡れないように保護しないといけない。なによりも寝る時も気を使うので煩わしい。今日は点滴の針とチューブが外れて、久し振りに開放感を味わう。
2015年(H27)1月17日 ステロイド剤30mgの服用になる
ステロイドの点滴が終了して今日からは、プレドニン錠(5mg)というステロイド剤の服用に変わる。プレドニン錠は直径5㎜ほどのピンク色の小さな錠剤だ。これを朝食後3錠、昼食後に3錠の合計6錠(30mg)を服用する。朝はこのほかに胃薬と、感染炎症予防、骨粗鬆症予防の薬も一緒に飲む。
2015年(H27)1月18日 30数年振り知人との奇遇
病棟内を1日何回もウォーキングする時、病室前に掲示されている患者の名札をつい見てしまう。70床以上もある病棟だから毎日のように入院や退院や移動がある。その日も何気なしに新しい名札を見ると、昔の知り合いに似た名前がそこにあった。2~3日間、「もしかすると」と思い少し気に掛けながらウォーキングしている時、その人らしい人とすれ違った。とっさに「○○さんですか?」と聞くと、「そうです」と答える。
その人は私が30数年前にお世話になった小さな会社の社長さんであった。その会社は当時景気が悪くなり数年でそこを退社した。その人も昔を思い出したらしく、私のことが記憶に残っていたようであった。少し話をしてから一旦病室に戻ると○○さんがやってきて、ラウンジで昔話や病気の話をする。その人は「タバコを止めようとして禁煙とリバウンドの繰り返しだった」事を話してくれる。そのタバコのためか肺がんに罹っていて東京の大病院では治療を見放されたらしい。だが、ここの病院で自分の希望した投薬をしてもらったら、なんと癌がほとんど消えてしまったという。そして、明日は一旦退院して2月にまた再入院して最終的な治療するのだと言っていた。それにしても奇遇と言うのはこのことか。
2015年(H27 )1月20日 待ちに待った退院の日
ついに北里大学病院を退院した。待ちに待った退院の日がやってきたのだ。前日に主治医の先生から「明日午前中に退院になります」と言われていた。朝の病棟内ウォーキングを5周ほどした後、最後の院内食を味わっていただく。ナースステーションの事務の女性が退院手続きの書類を持ってきてくれる。薬剤師さんが今後の薬も持ってきてくれた。最後に室内の入院患者に挨拶して病室をでた。ナースステーションでも挨拶をして、病院前のバスに乗る。妻には「荷物が少ないので迎えに来なくてもいい」といってあった。
夕食には退院祝いの赤飯が出た。近くの和菓子屋さんに頼んだようだ。その店は今日は休日だったのだが、赤飯をわざわざ炊いて自宅まで届けてくれたそうだ。「餅は餅屋」というが届いた赤飯はほんのり甘く、もちもち感が有り何ともうまい。おかずなしで幾らでも食べられそうな美味しい赤飯であった。
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